母との思い出が途切れた日 長岡空襲を語り継ぐ(前編)(BSN新潟放送) - Yahoo!ニュース
76年前、長岡空襲を体験し、今年88歳にして初めて語り部として活動を始めた女性が新潟県長岡市にいます。なぜこれまで話さなかったのか。空襲で亡くなった母の無念を背負い、「つらい過去」と「自ら考えて生きる意味」を語りました。 【長岡空襲体験者 櫻井信子さん(88)】「あんな経験したくなかったですよね。嫌な経験ですよね。その経験を話さなければならないのは、やっぱりつらいことです」 76年前、1945年(昭和20年)の8月1日夜、長岡市に無数の焼夷弾が落とされました。「長岡空襲」です。犠牲者は1488人にも上ります。今年も8月1日の長岡は、深い祈りに包まれました。 【櫻井信子さん】「土手の上から町の方を見渡すと、見渡す限り火の海でした」 長岡市で平和祈念式典のあった8月1日、公の場で初めて自らの空襲体験を語ったのは、長岡市の櫻井信子さん(88歳)。それは12歳の時の壮絶な記憶です。 長岡戦災資料館です。櫻井さんは今年、資料館の語り部ボランティアに初めて登録しました。2019年に初めて資料館を訪れた際、スタッフに声を掛けられたのがきっかけでした。 【櫻井信子さん】「私も先もないことだし、話をしておいた方がいいかなと。そんなに積極的な気持ちはなかったんですけど、なんとなくつつかれ押し出され」 戦後76年たち、ようやく語り始めた記憶があります。 【櫻井信子さん】「亡くなった人たちの思いをやっぱり伝えていかなければ、あまりにも哀れだっていうんでしょうかね。そんな気持ちになったということです」 櫻井さんは上越市生まれ。父の教信さんの仕事の都合で、小学生の時に長岡市に移り住みます。櫻井さんは、5人きょうだいの上から2番目。そんな家族を支えたのは母・綾子さんです。 【櫻井信子さん】「いい意味での教育ママでした。長女だったから母は私を一生懸命、いろいろなことを教えたりしてくれたから、私は母から習った編み物を縫うことも、本を読むことも母譲りで」 最愛の母との思い出は戦争に翻弄され、途切れることになります。1945年7月31日空襲の前日、櫻井さんは母・綾子さんの実家があった栃尾で過ごしていました。しかし8月1日夕方、家族で長岡の自宅へ戻ることになりました。 【櫻井信子さん】「長岡にも空襲があると言われてたんですよね。父は『もし空襲があったときに、家を空けておいてはいけないから必ず帰ってこい』と言ったんですよ」 【記者】「空襲のときに、家を空けてはいけないというのはどうしてですか」 【櫻井信子さん】「自分の所に火が出ているのに、消しもしないで家を空ける(のは駄目)。そういう世の中だったんでしょうね」 「空襲があったら家を守る」。それが当たり前の考え方でした。 <1945年8月1日午後10時30分 長岡空襲> 【櫻井信子さん】「慌てて外へ出ましたら、もうね、表町の方が真っ赤でした」 瞬く間に炎に包まれる長岡。「家を守る」など到底できません。櫻井さんは当時、現在の長岡市水道町に住んでいました。 【櫻井信子さん】「ものすごい人でした、土手の上は。もう飛行機が頭の上に飛んでいる所を逃げて、土手へ向かったんですよね。飛行機は長岡の街の上をグルグル回って、爆弾を落としてたんですね、焼夷弾を」 その土手へ行ってみました。 【記者リポート】「今は憩いの場という雰囲気ですけれども、かつては悲鳴も聞こえていたのかもしれません」 櫻井さんは母とともに逃れた土手が、昼間のように明るかったのを鮮明に覚えています。ここで、異変が起こります。 【櫻井信子さん】「それが何だったのか、焼夷弾の何かが落ちたのかもしれませんし、よく分かりませんけど、そこで母はパッと炎が上がった途端に『当たった』と言いましたね。何が当たったのかも、後になってもよく分からないんです」 その時、母・綾子さんは「おなかに何かがあたった」と訴えました。そして翌日以降、徐々に体が弱り、空襲から2日後の8月3日昼すぎに亡くなりました。内臓を傷めていたそうです。 【櫻井信子さん】「お葬式が終わったら、どっと疲れが出たっていうか、今まで押さえていた感情がみんな出たっていうかね。もう、それからしばらく泣き通しましたね」 あの日の記憶は、76年たった今も色あせません。 ※後編<88歳 語り部となった理由>に続く
BSN新潟放送
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